なぜか今日は

 もう四ヶ月も日記を書いていないことに気がついてしまった。ちょっと別の場所で文章を書くようになったら、全然自由に文章が書けなくなってしまってずっと悩んでいたのだった。物理的な問題ではなくて、精神的に。紆余曲折を経て、ちょっと自由な感覚が戻ってきたのでせっかくだしまた書きましょうか。
 身の回りの友人たちがTumblrを始めているのを見て、気軽そうでいいなと思うけど始めようとは思えない。メモのような感覚で色んな物を貼付けられるという自由度の高さとあのデザインは良いなと思うんだけど、やっぱり画像とか抽象的なもので意識みたいなものを反映して人に提示するみたいなものが自分に向いてないな、といつも感じるのでした。
 
 振り返ってみるとここ数ヶ月で色々なことがあった。大きかったできごとが二つあって、一つは良いことだけど書きたくないから秘密にしておく。もうひとつはやっぱり友人が死んでしまったことだ。まだ16歳だったころの僕に、語りえないなにかを表現するということの意味とその深遠さを見せてくれたのは彼が最初だったし、当時、身の回りにはそんな人なんていなかった。今僕がこんな風になれた(なってしまった)のも、彼を通して、そこである意味での通過儀礼みたいなものを受けたからだろうなと思う。きっと彼に会ってなかったら、もっとみんなのことが嫌いだっただろう。
 
 いつも誰かが死んでしまったときに思うことがあって、結局、最後は自分一人で乗り越えるしかないんだなということ。誰かが死んでしまうと、みんな悲しむし、同情もしてくれる。それでいくらか心は落ち着くんだけど、結局、その相手と自分との間にあったものは相手が死んでしまった今、自分一人だけしか見ることができない。そこだけは他人の想像すら及ばない領域だと思う。それ故に一番つらい部分であり一番大切である部分だからこそ、ちゃんと向き合っておかなきゃなと思う。一人で乗り越えるしかない、というか自分一人だけの中にのこる不可侵の領域だからこそ、自分一人の力で向き合ってその意味を感じとらなきゃいけない、といったほうが近いかな。絶対に忘れたくないことを忘れないようにするには、ということだ。

 ああ、全然うまく書けない。ここが書けないともうこの先やって行けない気がしてくる。でもこういう風に小さなことで自分を追いつめて、走ってる振りをするのはやめにしようと思った四月、毎日懐疑的だった五月、感情の反射が綺麗だからこそ転びそうになる六月、少し先が見えてきた七月。