コンフィデンシャルとは

 また期間が空いてしまったけど、気にせず再び始ることにします。
だいぶ生活の方は落ち着いた。ここ数ヶ月は時間のとられる作業──(僕のもともとの知識量の不足に起因する時間の浪費が目立った、と言うほうが正しいのだけれど)そういったものがあるていど落ち着いたので、精神的にはだいぶ楽になった。でも、「やらなくてはいけないこと=僕がやらないと誰かに迷惑がかかること」というのが生活の中に組み込まれると、ある程度生活というのは締まるな、というのがここ数ヶ月の感想。自由ってほんとに扱いにくい概念だ。

 最近は昔よりもう少しお金にこだわって生活することにしている。お金にこだわるっていうのは、お金にうるさくなる、ということとはちょっと違う。
ある一定の業界の中で動くお金の量っていうのは、ほぼ程度は決まっている。もうちょっと具体的に説明すると、例えば僕がある原稿を書かなかったとする。しかし、その雑誌、あるいは本というのは僕が書かなくても出版されることはほぼ決まっているわけだから、僕が書かなくてもその原稿は誰か別の人が書くことになる=その分の原稿料は誰かに支払われる──というわけだ。つまり、お金を指標にすることで、自分がどの程度その市場に対してコミットできるか、その実力があるか、ということが如実に表れてくるということになるのだ。とくにサブカルチャーという曖昧だけど身近なものを主体としている業界であればあるほど。

 また、その動くお金の総量っていうのは、川に流れる水の量と同じように、何かが起れば増えるし、減りもする。ちょっと常識では考えられないような増水の仕方をすれば、川幅が変わらない限り、元に戻ったあとでどこかにしわ寄せが来ることになる。このあたりの読み具合も中々面白い。

 そして、お金にこだわるということに一番の意味というのは、同人ではないということに尽きる。そこにお金=ギャランティが発生するということは、そこに自分以外の多くの人の生活であったり(たとえば出版社の人とか)、別の存在が関わっているということをひしひしと感じさせる。冒頭で書いた、「自分がここでやらないと誰かに迷惑がかかる」というところの、迷惑がかかる、という部分の責任の大きさと割合が、金銭契約が発生することで非常に大きくなるということでもある。
 いままでは、自分個人の能力に固執していれば、しなければ、という意識が非常に強く働いていたんだけどそれだけでやっていけるものでも無いんだな、ということをとても強く感じる今日このごろ。
 もちろん、そういった部分には「市場にのせるわけだから」という、パフォーマティブな態度が求められる場合もあるし、でも、それだけでは駄目なんだよといった現実と理想、成果と教訓といった二律背反な意味合いも含まれている。

 で、ここで出てくるのが今まで割と自分が足を置いていたインディーズ業界でうたわれる、"DIYの精神"って、どういうことなんだろう?という再考だったりする。リスクと価値を曖昧に保留したままお互いに干渉する、ということでは無いはずなのだ。それは分かっているけど......という部分。これも語りえないものであり、"シェア"という概念に接続できる話だなと大雑把に思ったりする。

 とかなんとか、まあ思ってるわけだけど、これは職業として生き残るための術に近いものがあって、個としての本質からは若干急所が外れているな、とも思ったりするが、非常に勉強にはなる。さあどうする大学二年生。
 というか、価値について考えることが多くなったなというほうが話題の本質としては近いのかもしれない。最近いろいろ思うことがあったので、それはまた明日。

とりあえずこの日記でチャンドラーの文体は獲得できないということが分かった。

White Jazz......